中学校1年生④

このあたりの記憶を思い出すと、病気でもうすぐ死ぬ人みたいな気持ちになる。

ああ、楽しかったなあ、懐かしいなあって。

楽しい事だけではもちろんなかったんだけど。

全然地獄、だったんだけど。

 

 

中1になって、家の中では変わらず地獄だった。

病気になって、制限が激しくなった気がする。

中1の時、何が起きてたかあんまり思い出せない。

 

親の喧嘩は相変わらずあったと思う。

次、親が喧嘩したら、髪を染めようと決意して、染めたことがあったから。

そう決意したら、むしろ早く喧嘩してくれって思った。

すぐ喧嘩した。

だからチャリを爆走させて薬局に行って、染粉を買った。

じわじわと茶色にするために、オレンジっぽいのを買った。

4分の1くらいずつ、じわーーーとやったけど、

日に当たると速攻で分かるレベルで茶髪だった。

私は地毛自体が茶色っぽかったから、お父さんには、薬の副作用で茶色くなってきたと言った。

お父さんは私の地毛が茶色いことを好きっぽかったから、染めた事を1mmも分かってなかった。

本当にアホでよかった。

お母さんは染めたの知ってた。

担任には、薬の副作用でって親が言ってた気がする。

 

今思えば本当に理不尽でおかしな話だよね。

絶対先生分かってたよね。

どんな目で見てたんだろう。

すぐ教育委員会に報告して、職員室で公開処刑して正義感を振りかざすくせに、

娘は病気で甘やかされて、髪を染めてる事も病気のせいにされて、注意もできないなんて。

すごーーーい目で見られてたんだろうなって思う。

先生には持病でって言ってたのに、みんなから染めた?と聞かれたら、うんって答えてた。

 

親ともども、バカだった。

でも、染めてるっていうの、好きだった。

バカにされない感じがして。

日がたてばたつほど、色が抜けて、茶髪になってった。

 

 

私はヤンキーでもなんでもなかったけど、

その髪色で、ジャージはいて歩いとけば、ぐれてるやつと思われて、

陽キャの人たちから話しかけられるようになった。

 

 

でも、女の先輩から目をつけられるようになった。

私の学校では、暗黙の学年のルールがあって、

1年生は長い靴下ダメ、みたいな決まりが色々あったけど、

親にそれを言ったら、病気なのに冷えさせたらどうするんだってことで

私は長い靴下はいてた。

そしたら1個上の先輩からめちゃくちゃ目をつけられた。

 

ある時、聞こえるようになんで染めてんの?とか

大津さんの娘でしょとかめっちゃ言われるようになった。

普通に歩いてたら、すごい勢いでアタックされたり、

掃除の時間に箒を引きずってたら、踏まれた。

すれ違う時に、こんな子じゃなかったのにって見下されながら言われた。

 

 

転校する前には、イオンみたいなとこにみんないつも遊びにいってて、

私も友達とそこにプリをとってたら先輩に呼び出された。

 

喫煙所に呼び出されて、タバコ吸いながら、

なんで引っ越すの?あの一軒家どうすんの?って言われた。

私は怖いのと、こいつら私に怒ってやんのwwって気持ちと、

なんでてめえらになんか言われないといけないわけ、とか

色んな気持ちだった。

 

一緒にいた友達は1個上にお兄ちゃんがいるからか、

私を見下すように、可愛い可愛いと言われてた。

何人か女の先輩たちが集まってきた。

 

 

あ、思い出した。

化粧してたら、たまたま会った先輩に化粧してるって

面と向かって色々言われてそれがきっかけで呼び出された。

 

結局、何話したかあんまり覚えてないけど、

事情聴取はすぐ終わって、帰ることになった。

 

 

あと、ゲーセンにいたら、1個上の先輩にプリ機を思いっきり蹴られることもあった。

私は速攻、チクリ復讐病が出て、親に言って、先生が注意して、たしか謝罪された。

私はチクルくせに、チクリ魔と言われるのを非常に恐れてた。

 

 

 

他にも、他の中学の子と交流するのも好きだった。

私は色んな子と仲良くなってたけど、最後の方は、陰キャラを避けるようになった。

 

 

そうえいば、同じクラスの女の子の姉で、同じ病気の子が、

いつも給食前に保健室で血糖値を計る時にいて、良く話してたんだけど、

いつも優しかった。妹はクソなのにな・・。

 

 

お父さんは、何かあっても、何かなくても、中学にすぐ行った。

細い道路わたった目の前が中学校だったから。

地獄だった。近すぎて地獄だった。

 

登下校のタイミングで庭に水やりをしだすし、

学校のボランティアをしに来るし、

みんなの前に姿を現すからすごく嫌だった。しにたかった。

中学でもお父さんは有名で、私はその娘と言われ続けた。

 

 

嫌と言えばぶちぎれられ、相変わらず私は何の主張もできなかった。

すごく強烈に嫌だったのが、野球部がイケメンの宝庫だったんだけど、

お父さんが理由は忘れたけどそこに姿を現したことがあって、

なんかでキレてたんだけど、それを見られたのが本当に嫌だった。

絶望だった。また魂が死んだ瞬間だった。

 

でも、諦めるしかない。これが私の人生。

私はみんなみたいに生きれないし自由もないし好きな事も出来ない。

そんな気持ちで、心がまた閉じていった。

無気力になる瞬間だった。

 

 

私が不登校になるタイミングは、思い出せないけど、

同じクラスの子が怖くなったり、誰かになんかされたと思ってパニックになったり、

チクリ病が発動して怖くなったり、

恋愛で失恋して馬鹿にされるのが怖くなったり、そういう時だった。

 

 

家の中はくしゃくしゃだったのに、こっちの方が思い出せない。

今思えば、本当に外側に問題をわざわざ作ってたんだと思う。

 

 

今思えば、普通に生きれば、普通に、彼氏とかできたんだと思う。

でも普通に生きれるはずがなかったんだよね。

 

 

 

お父さんは毎日、私に足湯させて、肩や足をマッサージした。

地獄でしかなかった。

片づけられない私にすぐぶちぎれたり、勉強できない私にぶちぎれたり、

英語を話せるお父さんは、私に英語をやらせたくて、

英語の先生とも仲良くて、私は言われるがままにいつも復習のーとを提出してたけど、

英語はまるでできなかった。

それで怒られた。

お父さんが恥をかく、こんなに文句言ったしてるのに馬鹿にされるんだぞって。

お父さんにもお母さんにも言われた。

 

あの時、お父さんとお母さん、なんで喧嘩してたんだっけ。

本当に思い出せない。

 

 

でも、あの一軒家で書いてたノートがあったんだけど、

そこにいっぱい、死にたいって書かれてたから、

この時もすごく死にたかったんだと思う。

殺してやりたいとか、私が死んで分からせてやるとか書いてた。

 

 

あのノートを思い出すと、毎日地獄だったのを思い出す。

何もうまくいかなくて、苦しかった。

あの時は、何で苦しくて、うまくいかなくて、

なんでこんなに死にたくて、とか

何も分からなかった。

 

 

私なんて、って思ってた。

 

 

お父さんは私にすぐ姿勢が悪いとか、体を冷やすなって言ってきた。

病気を治すって言って、高いアロエの何かを飲まされてた。

 

 

ある時期、血糖値が正常な時が続いて、

親にもうすぐ治るね!!って言われてた。

(治るわけねーだろバカか勉強しろよ死ねよ出直せ)

 

 

でも、クラス会で焼肉食べ放題に行った時に、

バカ食いして、血糖値が大変なことになって、それがしばらく続いた。

その時はインスリンの量とか調整できなかったから。

そしたらお母さんにぶちぎれらた。

 

非常に不機嫌にされた。

治りかけたのにあんたのせいで、みたいな感じにされた。

私はまた心が真っ暗になった。

 

理不尽に怒られる事に対して、どうすることもできないから

ただ諦める事が増えるだけだった。

 

 

そういえば、毎月の通院に、いつもお父さんがついてきた。

すごく嫌だった。

病院はすごく待たされるから、そのたびに長いって

不機嫌にされて、病院の椅子で寝られて、

すごくすごく、嫌だった。

私、悪くないのに。